縄文の「開いた口」とマジカルな扇状地

旅の中で

ぽっかりと開いた口

森を歩いていると、植物や動物たちの不思議な形に目が留まることがあります。自然界において、形には必ず意味があります。そして人間が作るものの形にも、必ず大切な理由があるはずです。

南アルプス市にある「ふるさと伝承館」で縄文土器や土偶を見てきました。まず目に飛び込んできたのは、あのなんとも言えない「愛嬌」でした。上手なのか下手なのかよく分からないけれど、とにかくみんな、口を丸くぽっかりと開けていて、なんだかたまらなく可笑しくて惹きつけられてしまいます。

縄文の人たちはなぜ、現代の私たちが一見すると間抜け顔に見えてしまう、この「口の開いた」デザインにしたのでしょう。そこには、どんな想いが込められていたのでしょうか。

私たちの感覚だと、口を開けている姿は「ポカンとしている」「気が抜けている」など、どこかエネルギーが抜けた状態をイメージしがちです。社会の中で隙を見せないように、私たちは自分を律し、いつも口を閉じ、表情をコントロールして生きています。

でも、縄文の世界の「開いた口」は、きっと現代とはまったく違った意味を持っていたはずです。「口を開ける」とは、すなわち「声を発する」こと。それは歌であり、祈りでもありました。そしてそれは、自分の内側を世界に開く、とてもエネルギーに満ちた行為だったのだと思います。

「言霊(ことだま)」という考え方があるように、古くから日本では「声を発すること」に神聖な力が宿ると考えられてきた形跡があります。歌や祈りは、その最たるものではなかったでしょうか。

そう思って、他にも口の開いた像がないか調べてみると、おなじみの「埴輪(はにわ)」が出てきました。古墳時代の埴輪には、手を挙げて口をぽっかりと開けたものがあります。あのサボテンのようなやつです。あれは決して呆然としているのではなく、お葬式の場で歌い踊り、死者を弔っている姿なのだそうです。

声を出すこと、歌うこと、あるいは祈ること。これらはすべて、自然とつながるための神聖な行為であり、その入り口こそが、あの口だったのではないでしょうか。

そう考えると、展示室にいた縄文の土偶や土器たちが、みんな一斉に、世界に向かって歌い、祈っているように見えてきます。

なぜ、あえて危ない場所に暮らしたのか

そんな縄文の人たちの暮らしぶりが垣間見える、おもしろい展示パネルがありました。南アルプス市周辺の縄文集落の歴史を紹介するものだったのですが、「水害のリスクがある山のふもと(扇状地)に、なぜか『マジカルなもの』がたくさん見つかる大きな村が集まっていた」ということが書かれていました。

まず、この「マジカルなもの」という表現がとても素敵だなと思いました。博物館っぽくないというか…
祈りのための土器や土偶、動物を象ったものたちを、そう呼んでいるようです。

それにしても、わざわざ水害のリスクがある危険な場所に住まなくても、少し離れた安全な高台などに住んで、収穫のときにだけそこに行けばよいのに、と思います。
でも、縄文人にとって「恩恵とリスク」は常に表裏一体でした。彼らが危険を覚悟でこの場所で暮らしたのは、ここが恩恵の圧倒的な最前線だったからでしょう。

何よりも大切なのが「水」です。水道も車もない時代、毎日使う大量の水を遠くまで汲みに行くのは重労働です。足元からコンコンと湧き出る湧水のすぐそばに暮らすことは、場所選びの優先条件だったはずです。

そしてもう一つが、その水辺がもたらす「木の実」の恩恵です。おそらくこの場所には、水辺を好むクルミやトチノキがたくさん生えていたはずです。洪水のたびに流れる水がクルミの種を下流へ運んでくれ、他の植物が流された場所で大いに繁栄したのでしょう。さらに他の植物が流され日当たりの良くなった場所には、山菜もたくさん生えたかもしれません。
水や木の実を毎回遠くまで運ぶより、実りと水の真ん中に陣取っている方が良いと考えたのでしょう。

危険だからと遠ざかるのではなく、水と水辺の恵みを受け取るために、リスクを丸ごと引き受けてその「キワ」に身を置く。そして自然の機嫌を伺うために、たくさんの「マジカルなモノ」を必要としたのではないでしょうか。

水の記憶

その「水」に対する感謝と畏怖が、そのまま形になったのが、山梨を代表する「水煙文土器(すいえんもんどき)」なのだと思います。

土器の縁を、波や水しぶきのような模様でで立体的に表現しています。これはまさに彼らが日々目撃していた、山々から一気に駆け下りてくる水の凄まじいパワーでそのものではないでしょうか。
自分たちの力では決してコントロールできない、けれど離れるわけにはいかない強大な「水のエネルギー」を目に見える形にすることで、彼らは荒ぶる川をなだめ、豊かな恵みに感謝を捧げていたのかもしれません。

現代もこのエリアには、武田信玄が築いた「信玄堤」や、伝統的な川の防壁である「聖牛」といった、水の力を無理にねじ伏せるのではなく「うまく受け流す」仕組みが今も残っています。

パソコンやスマートフォンの画面から入ってくる情報だけでなく、実際に歩いてみることで、点と点が繋がっていくことが多いんだなと感じました。

解決するのではなく、共に生きていく

自然と共に生きる彼らにとって、あの「口の開いた」形は、命がけの真剣な祈りの姿だったはずです。

なのに何千年も経ったいま、私たちがそれを見て「どこか間抜けで愛嬌がある」と心が緩んでしまうのが、なんだかすごく面白いなと思います。笑いはそういう「必死さ」の中に生まれるものなのかもしれません。

今の私は「縄文の人々は真っすぐ自然と向き合っていたんだ」としみじみ考えていますが、もしかしたら当時の流行り、「縄文のPOPカルチャー」だった可能性もありますね。
「この口の形、なんか可愛いからまた作ろう」なんて、みんなで楽しんでいただけかもしれない…

祈りなのか、それともただの流行なのか。本当のところは分かりませんが、どちらにせよ、あのぽっかり開いた口を見ていると、縄文人の体温が少しでも感じられるようで、なんだか嬉しくなってしまいます。

私たちは、何か問題が起きると「解決する」か、自分たちの都合の良いように環境を「変える」という選択をしがちです。

縄文の人たちは、自然は変えられないし、災害を完全に無くすこともできない。その現実を受け入れた上で、「このリスクも恵みもすべて丸ごと引き受けて、その中で一緒に暮らしていく」という姿勢だったのでしょう。そこに「祈り」の本質があるような気がします。

ちなみに、最も有名な縄文土器「火焔型土器(かえんがたどき)」は雪深い新潟で作られました。雪と寒さに対して、火への依存が他の地域と比べて圧倒的に高かったはずです。長い冬の死の恐怖を打ち破り、サケなどの恵みを煮炊きしてくれる存在として「火」が崇拝され、あの燃え盛るようなデザインが生まれたのだと思います。「水」の山梨と、「火」の新潟。その土地ごとの生きるための切実さが、そのままデザインの違いになっているのも面白いですね。

自然をコントロールしようとするのではなく、その大きな力の中に自らを委ね、一部として生きる。そんな縄文人の生き方は、現代の私たちにとっても、心地よく生きるための大切なヒントをくれている気がします。

山梨県には他にも縄文土器や土偶が見られる博物館がたくさんあります。笛吹市の「釈迦堂遺跡博物館」では圧倒的な数の土偶が、甲府市の「山梨県立考古博物館」では教科書で見たような水煙文土器が見ることができます。
是非訪れてみてください。

山梨県立考古博物館の水煙文土器
釈迦堂遺跡博物館の土偶
タイトルとURLをコピーしました