空から降ってくるごちそう

日々の暮らし【富士山麓の生活】
富士北麓の初夏

ついこの間まで青かった桑の実は、いつの間にか熟れて、どんどん地面に落ちています。
待ってましたとばかりに、アナグマがやってきます。

それが合図のように梅雨が始まります。
森の中ではギンリョウソウやキノコが顔を出し、庭の倒木からはなめこが生えてきました。
シダは葉の裏に胞子嚢をつくり、胞子を飛ばし始めます。

裏山ではカモシカが縄張りをパトロール中です。シカたちは冬毛から夏毛への生え代わりのタイミングです。

空はどんよりする日が多くなりますが、風は少なく、湖は凪ぎ、富士山が意外としっかり見える季節でもあります。

変化って何?

ここでは毎年同じように、命の営みが繰り返されています。
私たちの目から見ると、森の中ではそんなに劇的に何かが変わることは、なかなかありません。しかし、「桑の実が熟れて落ちてくる」というのは、アナグマにとっては「ごちそうが空から降ってくる季節」になるわけですから、一年というスパンの中では劇的な変化です。一生が一年、あるいはもっと短い生き物たちにとっては、毎日がずっと変化の連続なのでしょう。

人間は、他の生き物たちに比べて長く生きるからこそ、いろんなことを「学習」していきます。
「去年も桑の実が落ち始めたらアナグマが来たな」とか、「梅雨に入ったからそろそろキノコが出てくるな」というように、記憶から物事のパターンを繋げて予測していくのです。

そう考えると、私たちが普段思っている「変わらない毎日」というのは、「ほぼ予想通りの毎日」ということなのでしょう。そして、その予測が外れるようなことがあった場合に、私たちはそれを「変化」と呼び、自分にとっての「新しいこと」として受け止めるのかもしれません。
私たちが時に新しい変化を求めてしまうのも、今後の生存確率を上げるために、安全な範囲内でさまざまなパターンを「学習」しようとする、生き物としての本能なのでしょう。
今の時代、ただ学習欲求を満たすだけなら、スマホを開けば新しい情報が溢れています。溢れているどころか、秒単位で押し寄せてきます。
でも、そうやって消費する情報には「実感」が伴わず、すぐに飽きて、また次の変化が欲しくなってしまうのかもしれません。

私は今年も、桑の実をつまんで食べています。
「今年は去年より甘い気がする」などと、自分の曖昧な記憶から適当なことを言っています。
ただ、桑の実を食べると、なんだか元気になるような気がするのは、毎年変わりません。

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